柳本晶一は現在も監督としてバレーボール指導者を継続!指導力はやっぱりすごかった!

今回は、バレーボール元女子日本代表の監督である柳本晶一さんについてまとめましたので、ぜひご覧ください。

 

柳本晶一とは何者か

生年月日は1951年6月5日で出身地は大阪府大阪市。柳本晶一さんの現在の年齢は68歳です。大阪商業大学付属高校卒業後の1970年に帝人三原に入団をします。

翌年には新日本製鐵(現・堺ブレイザーズ)に移籍されます。1973年には全日本代表に招集されますが控え選手としてでした。

1974年に開催されたアジア大会では優勝、同じ年に開催された世界選手権では見事銅メダル獲得を果たします。

1980年からは、選手としてではなく選手兼監督としてプレーします。

1982年には日本リーグ(現プレミアリーグ)優勝を果たします。

1991年には現役引退を発表され、監督に就任されます。

2003年に全日本女子代表監督に就任され、歴任された監督は採用していなかった若手選手を積極的に起用されるなどの大胆な起用をされます。

同年に開催されたワールドカップでは、強豪のキューバから金星を挙げるなど快進撃を演じ5位を達成され、翌年に開催されたアテネオリンピック世界最終予選では開幕6連勝を果たします。

オリンピック終了後に自ら日本代表監督の辞任を示唆されますが、協会に慰留され続投されることが決定されます。

2006年に日本で開催された世界選手権では6位。

2007年開催のワールドカップは7位。

2008年に開催された北京オリンピックでは5位の成績を残されます。

2008年には在任期間が6期となったことから、正式に日本代表監督から辞任されます。

これからも、若いバレーボール選手を育てていただきたいですね!!

 

柳本晶一の現役時代の活躍まとめ

1970年に帝人三原に入団をします。

翌年には新日本製鐵(現・堺ブレイザーズ)に移籍されます。

1973年には全日本代表に招集されますが控え選手としてでした。

1974年に開催されたアジア大会では優勝、同じ年に開催された世界選手権では見事銅メダル獲得を果たします。

1980年からは、選手としてではなく選手兼監督としてプレーします。

1982年には日本リーグ(現プレミアリーグ)優勝を果たします。

1991年には現役引退を発表され、監督に就任されます。

”監督”としての柳本さんはもちろん知っていますが、”選手”としての柳本さんを知らなかった方は多いのではないでしょうか?

これを機に知れてうれしかったです。

 

柳本晶一は現在も監督

柳本さんは、今現在、監督として活動中とのことです。

詳しくは、後述します。

 

指導者として活動を続ける

2010年に朝原宣治さんらとアスリートネットワークを結成

4月には、芦屋大学特任教授に就任されます。

2013年には、大阪市立桜宮高等学校のスポーツ指導刷新のために「桜宮高校学校改革担当」に就任されます。

2016年に男子プロバスケットボールBリーグに参加する西宮ストークスの顧問に就任されます。

引用:柳本晶一

今後のバレーボール業界をもっと盛り上げていってほしいですね!!

 

柳本晶一の指導方法や再起不能と言われ続けていた全日本女子について

柳本さんが語られた指導法や再起不能と言われ続けていた全日本女子について語られていますので、記載させていただきます。

 

指導法について

「バレーボールは団体競技の代表みたいに言われますが、勝つという目標を持った時は個人競技の側面が非常に強いんです。

だから選手にはそれぞれに「上げる、打つ、拾う」と役割を与えています。

それを選手一人一人が一切の妥協を許さずにきちっと仕事をしたのちにおのずと「勝利」につながるんです。

そして、バレーボールはミスが付き物のスポーツです。

自分のチームにミスが多くても、相手がそれ以上にミスをすれば勝つこともありますし、逆にミスが少なくても相手がそれ以上に完璧だったら負けるんです。」

引用:柳本晶一(全日本女子前バレーボール監督)<前編>

再起不能と言われ続けていた全日本女子について、彼はこう言っています。

 

「正直僕の元に、全日本女子の監督の要請がきた時は本当に悩みました

しかし、自分は”バレーボール”というスポーツがあったからこそ、幸せになれたので、バレーボールというスポーツに対して、“恩返しをしなきゃいけない”という気持ちが強かったので、監督に就任させていただきました。

しかし、当時の全日本女子の成績は非常に芳しくありませんでした。

しかし、監督に就任して女子の選手の能力を良く観察していると、事前の評価よりももっと高いところにあると思いました。(インタビュアーより、選手の招集基準について、質問されると。)

僕が就任する前の全日本女子の招集基準は、日本のナンバー1チームの集まりだったんですね。

そこに不満を抱いたので、私は完全な選抜制にいたしました。

日本のベストチームをそのまま(全日本女子に)呼ぶのではなく、結果を残せるメンバーを集めたんです。

具体的には、約7年間も代表から遠ざかっていた吉原知子や、当時高校2年生だった木村沙織を招集しました。

 

以上が、柳本さんの指導方針のようです。

素晴らしい指導方針や、考えをお持ちですよね!!

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